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スイスの時計メーカーは21世紀を生き残れるか?

外国との競合が「活を入れた」スイス時計産業の歴史

スマートウォッチの勢いに押されるスイス製エントリーモデルの腕時計 Rdb By Dukas / Candid Lang

スイスの時計産業が新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)や外国製のスマートウォッチの影響にあえいでいる。だがスイスを代表する輸出品・時計が危機に直面したのは、これが初めてではない。過去の歴史を振り返った。

このコンテンツは 2021/06/26 06:00
Béatrice Koncilja-Sartorius

コロナ禍は様々な経済分野に影響を与えた。時計産業も例外ではなく、数字がそれを如実に物語っている。2020年、スイス時計の国外での売上は22%減の170億フラン(約2兆円)に落ち込んだ。ここまで悪化したのは2008/2009年の金融危機以来だ。

一方で米国製やアジア製が主流のスマートウォッチは売上を2割伸ばし、スイスの時計メーカーにさらなる打撃を与えた。

今年初めに入ると状況は少し落ち着いた。大阪大学の歴史学者で、時計産業に精通するピエール・イヴ・ドンゼ氏はそのため、これが単に周期的な危機であると願いたいと言う。

同氏は「だが今回の危機により、過去20年間の主要な流れが強まる可能性がある。つまり、販売数の減少と高級ブランドの強化だ」と指摘する。

スイスの時計産業は、これまで3度にわたり大きな試練を乗り越えてきた。結果こそ異なるものの、共通点が1つある。それは外国の競合による脅威が原因だったことだ。革新的で、より競争力のあるビジネスモデルで攻めてくる世界の競合。過去を振り返り具体的に見てみよう。

「スイスの時計職人たちよ、目を覚ませ!」

米マサチューセッツ州にあるウォルサム・ウォッチ・カンパニーの工場。1887年 Classic Image / Alamy Stock Photo

1870年、スイスの時計産業は隆盛を極め、世界で製造される時計の7割はスイス製だった。だが1876年にフィラデルフィアで開催された万国博覧会では、米国のウォルサム・ウォッチ・カンパニーが精密なネジを製造するための初の全自動機械を発表。また新しい製造ラインを披露した。この画期的なコンセプトで、精密かつ交換可能なムーブメントのパーツ製造が可能になった。

当時、スイスの時計メーカー・ロンジンのエンジニア、そしてスイス代表団のメンバーだったジャック・ダヴィッド氏はショックを受け、万博から帰国後、仲間を奮い立たせるために「スイスの時計職人たちよ、目を覚ませ!」と報告の中で強く訴えた。

そして「スタンダード化や機械によるパーツ加工、安価な時計の大量生産や垂直統合が加速する。1890年以降、米国はフランスを追いやり第2の時計大国になるだろう」と予言した。

崩落はすぐに訪れた。主要市場である米国への時計輸出額は1872年の1830万フランから、5年後の1877年には350万フランに減少。米国の職人が年間150個の時計を生産する一方で、スイス職人は40個しか生産できなかった。

ダヴィット氏はそのため生産の近代化に着手。最初の大規模な工場はベルンのジュラ地方他のサイトへに建設され、何百人もの経験の浅い職人が起用された。これを境に、

機械化された工場で作る安価な時計と、高級・高精度の時計の共存が始まった。

ビクトリア朝後期に作られた懐中時計。ウォルサム社製 Rachel K. Turner / Alamy Stock Photo

「シャブロネージュ」の脅威

第1次世界大戦末期、戦時中は軍需産業に転換していたスイスの時計産業は、産業基盤の肥大化と継続的な価格の下落に苦しんでいた。

また1922年、ドイツのプフォルツハイムに突如として時計産業が出現。時計のムーブメントのパーツを外国で販売し、現地で組み立てることで完成品にかかる関税を免れるシャブロネージュと呼ばれる方法を用い、スイスの関係者らを悩ませた。

米国との競争は依然激しく、スイスからの産業移転も進んでいた。やがて米ブローバ社は1912年、スイス北西部にあるビール(ビエンヌ)に最初の時計パーツ工場を立ち上げた。

スイスブランドの時計が外国で生産されることに対抗するため、1926年に最初のカルテル「エボーシュSA他のサイトへ」が設立された。 これにより生産、価格、輸出政策などが全て合意の下で行われるようになった。

やがて世界的な経済危機を通し、保護主義はさらに強まっていく。1931年には巨大なホールディング会社、スイス時計総合株式会社(ASUAG)が設立され、逸脱する企業への経済戦争が繰り広げられた。

トーレンス社の工場で働く時計職人。ヴォー州サント・クロワ、1938年 Fotostiftung Schweiz / Theo Frey

そこへ連邦政府が介入し、カルテルを事実上合法化した。1934年に時計製造に関する規約に輸出・製造許可が導入され、1936年には雇用者組織の関税に拘束力が認められた。

この介入主義で、時計業界の労働組合や雇用者団体をなだめることに成功した。歴史家のヨアン・ボワラ氏は、「当時、ボリシェヴィキ革命や全体主義といった動きがもたらす脅威を誰もが恐れていた」と説明する。

クオーツ神話

1945~75年の「繁栄の30年」と呼ばれた好景気では国際競争が激化し、時計産業は次第に自由化されていった。1971年にはスイスの時計規約が廃止された。

1960年代末には企業数1500社、従業員9万人を誇る一大産業だったが、1985年には企業数500~600社、従業員3万人にまで縮小した。1975~85年の構造的危機は、スイスで発明されたクオーツ技術の実用化を推し進めた日本メーカーとの競争が背景にあった。

だが、これはただの「神話」だと歴史家のドンゼ氏は言う。クオーツ革命は危機の原因ではなく、単にその影響を強めただけだと同氏の研究は示しているという。

そして問題は第一に、時計規定によって凍結されていた生産体制だった指摘する。その結果、合理化の進まない高級時計の生産(ロレックス以外)と、大量生産(低価格帯のロスコプフ時計など)というスイスの2本柱が温存された。だが競合だった日本のセイコーは、この2つの側面を巧みに組み合わせ、より正確で高品質、かつ安価な時計を量産することに成功した。

Afp / Yoshikazu Tsuno

また、スイスは金銭面でも不利な状況に追いやられた。1973年に固定相場制が廃止されると、フランの対ドル相場が下落。「スイスメイド」の時計は、主要市場の米国で高嶺の花となった。1970年に83%だったスイスの対米輸出の割合は、1975年には59%以下にまで低下した。

スイスの巻き返し

スイスは、もはや機械式時計に未来はないと絶望した。だがオメガは電子時計の販売にも苦戦。スイスの2大ホールディング会社であるASUAGとスイス時計工業株式会社(SSIH)は、業績の悪化から倒産の危機に瀕していた。

救済を求められた大手銀行UBSとSBSは、ニコラス・ハイエック氏を起用。同氏はスイス時計産業の巻き返しを図るため、時計会社を全て1つ屋根の下に統合する計画を打ち出した。救済資金は両銀行が受け持つことになった。

ASUAGとSSIHの合併により、スウォッチグループの前身であるスイス・マイクロエレクトロニック時計総連合(SMH)が誕生した。ハイエック氏は、複数の投資家らと共に、資本の大半を請け負った。

1985年のプラザ合意によってドル安円高が進み、円はスイスフランに対する競争力を失った。スウォッチがすい星のごとく急成長を始めたのは、この頃からだ。

(独語からの翻訳・シュミット一恵)

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