葬られた歴史の証人
私が住むマンションは、ジュラ州ポラントリュイ市内の「シナゴーグ通り」に位置する。その名が示すように、かつてこの通りにはシナゴーグ、つまりユダヤ教会が建っていた。
1874年に建てられ、ポラントリュイに於いて歴史的にも建築学的にも重要な建物であったはずのこの教会は、1983年、あっけなく解体に至ってしまった。
その原因を調べるために市のユダヤ移民の歴史に焦点を当てると、民族が辿った苦難と共に、ジュラ地方産業・経済の盛衰、そしてそう遠くない過去に住民が犯したあやまちが次々と浮き彫りにされていく。
ポラントリュイ市に移住してきたユダヤ人の大多数はフランス・アルザス地方出身である。記録に残る最初のユダヤ人は、革命政府統治下のフランスから1794年に移住してきた家族である。
19世紀半ばより、アルザス地方で反ユダヤ運動が盛んになった。1870~1871年の普仏戦争後、アルザスがドイツの統治下に入ると、スイスに移住するユダヤ人が激増した。ポラントリュイを含むジュラ地方全体で1850年に200名ほどだったユダヤ人が、1880年には500名にのぼった。
彼らは自分たちを受け入れてくれた土地に溶け込み、主に商業を通じて地域社会に貢献しようと努力した。フランス名に改名し、有産階級者(ブルジョワ)としての住民権を獲得するものも数多く現れた。
(注釈―2011年「初冬の華やぎ」と題したブログ内にも書いたが、ヨーロッパに於ける有産階級=ブルジョワジーとは、元来、都市における裕福な商工業者を意味する。しかしながら現在、スイスに於いては財産の有無は関係なく、「ブルジョワ住民としての特権」を持つ人間であることを意味し、その特権の内容は各市町村によって決められている)
19世紀から20世紀初頭にかけ、ユダヤ人の伝統的な職業と言えば、商業、主に牛馬や土地の売買であった。1818年から1840年頃の同市における彼らの職業は、繊維・皮革製品製造業が大多数で、その他は牛馬の売買であった。1910年頃になると衣類を中心とした商店と牛馬の売買業者が7 : 3の割合になった。
彼らの子孫の中には、異なった分野に新天地を見出し、類い稀なる成功を収めた者も少なくない。スイスが世界に誇る時計会社や、ベルン州フランス語圏の小さな村に会社があるチョコレート製造業者がその例である。
1939年、第二次世界大戦が勃発。さらに翌年、フランスがナチス支配下に置かれると、フランスに定住していた多数のユダヤ人が命がけでスイスに入国しようと試み、国境を接するジュラには大量の難民が押し寄せた。
最初のうち、スイスはユダヤ難民を受け入れていた。しかし、ナチスドイツから圧力をかけられるようになったため、スイス国境警備隊は、越境を果たしたユダヤ人のうち老人と病人、そして16歳以下の子供を除き、追い返すようになった。
ハーケンクロイツの旗が翻るヨーロッパ各国、そして強制収容所から逃亡し、ようやく中立国スイスの土を踏めたと安堵したのも束の間のことであった。心身ともに疲弊し切ったこれらの人々を、死の恐怖が待ち構える国境の向こう側に再び追いやる時、警備隊員達は何を考え、どのような行動を取ったのだろうか。
ある国境の村の警備隊長は、以下の様な苦悩に満ちた文を残している。
「毎日毎日ユダヤ人と(ナチスに強制労働を強いられていた)フランス人労働者が逃げ込んできた。任務を果たすことは、時にはひどく辛かった。彼らを追い返す時、私の魂は死んだ」
その一方で、彼らの密入国を助けていたスイス在住ユダヤ人、カトリック修道会や国境近辺の村に住む善意に富む人々がいた。
ポラントリュイ市内で会社を経営し、既に裕福な実業家で土地の名士となっていたアンリ・スピラ(Henri Spira)氏は難民救済に尽力し、ベルギーやオランダの難民関係機関やフランスの越境案内人とも関わりを持っていた。しかし1942年、彼らの「組織網」がスイス軍当局によって突き止められ、同氏と仲間達は取り調べを受けた。
また、ポラントリュイのユダヤ人共同体が中心となって、難民救済に充てられる寄付を募った。寄付は、年々、額を増やし、その一部はユダヤ移民の心の拠り所、シナゴーグ維持にも充てられた。
話は前後するが、ここで、本題であるポラントリュイのシナゴーグの歴史について、かいつまんでご説明しよう。
19世紀半ば、在住ユダヤ人の間で、シナゴーグ、すなわちユダヤ教会建設の動きが高まった。それまでは、カトリック色強いこの地域でユダヤ教徒に祈りの場所を提供してくれる者は少なく、専任司祭もいなかった。ユダヤ教徒達はフランスにまで赴き、祈りを捧げていたようである。
厳しい状況の中、1869年、シナゴーグ建設に向けて管理委員会が発足し、建設資金調達計画に着手した。一度は州政府の援助を確約したものの、計画倒れになった。そのことについて彼らは多くを語りたがらない。結局、市のユダヤ社会全体が協力し合い、病院や銀行からの借金で何とか建設にこぎつけた。
1874年夏、シナゴーグは完成した。当時のユダヤ系週刊紙(ドイツ語)によると、「東洋的要素も混じったバロック建築のシナゴーグは、スイスで最も大きく最も個性的な造りの建物の一つである。半ゴシック式の二本の長尖塔の間には、十戒が書かれた碑が建っている。建物の全ての角は丸みを帯び、スイスでは大変珍しい」と描写されている。収容人数は100名ほどだった。
建立当時、ユダヤ人共同体は秩序が保たれ、積極的に教会の維持に寄与していた。1949年には大規模な改修工事もしている。しかし、「ユダヤ人」という定義を、ユダヤ教義を重んじ信仰厚い人間に限るとすれば、実は、1920年代より同市におけるユダヤ人共同体は衰退の一途を辿っていた。
スイス人への同化を促進する過程で親が子にユダヤ人としての教育を施さなくなってきたこと、若い夫婦が引越し町を出て行ってしまったことなどが原因として挙げられるが、ユダヤ人経営の会社を次々と閉鎖・売却に至らしめた経済危機や産業衰退も大いに関係していると言えよう。
ユダヤ教の祭式を執り行うためには最低10人の成人男性が必要であるが、1926年以降、このユダヤ教会は、慢性的な信者不足に悩まされるようになった。
「シナゴーグはどうなるのか?ここ数年来、シナゴーグは見捨てられている。昔は小奇麗だった庭も草が伸び放題で荒れ果てている。建物の表面は剥げ落ち、窓は割れ、鉄柵は破損している。美しい庭木だけが過去の豊かさを物語っている…そう昔のことではないのに…」
1980年6月4日付け地元紙「デモクラット(Democrate)」は、シナゴーグの惨めな状態を抒情的に書き綴っている。建物の荒廃には、心無い人々の仕業(破壊行為・器物盗難など)も影響していたらしいと、当時を知る数人が証言している。
1982年、共同体メンバーは市内にたった2家族、市外に1家族となった。建物は州の文化遺産とは見なされず、市は保存にまったく関心を示さなかった。他市のユダヤ共同体の援助もほとんど得られず、窮地に追い込まれた3家族は、相談の末、「シナゴーグ売却」という辛い決断を下した。
1983年4月28日、建物は解体された。速いペースで作業は進み、シナゴーグ跡にはマンションが建てられた。
「残念ながら、当時の世間にとってユダヤ教会を壊すことは、その辺の廃墟を始末するようなものだった」
当時、シナゴーグの向かいにある家の高層階から解体作業とマンション建築工事の一部始終を見届け、その光景を写真撮影したヴァラ(Vallat)夫妻が語ってくれた。
屋根の上に掲げられていたモーゼの「十戒」を刻んだ石碑は解体前に丁寧に降ろされ、庭に建て直された。この石碑と鉄柵が、唯一シナゴーグの名残を留め、かつての存在を伝えていることは不幸中の幸いと言っても良いだろうか。
駅から下りてポラントリュイ散策に向かう途中の旅人が、駅前通りに面して立つ碑に気づいて足を止め、興味深そうに見入る光景を見かける時、私の胸は悲喜が交じり合った何とも表現できない感情に締め付けられる。
1999年、私は縁あってシナゴーグ通りに引っ越してきた。かつてユダヤ移民の心の支えであったこの場所で史実を見据え、自分なりのやり方で後世に伝えていきたいと願い、機会がある度にこのテーマで記事を書いている。
執筆に当たり、快く協力かつ写真提供下さったかつての隣人ヴァラ夫妻、優れた歴史家であり参考文献の著者の1人であるシャンタルさんに、厚く御礼申し上げます。
Mes remerciement particuliers s’adressent à :
Madame et Monsieur Denise et feu Jean Vallat
Madame Chantal Gerber Baumgartner
マルキ明子
参考文献 :
「LA COMMUNAUTE JUIVE DANS LE JURA」
編集・MUSEE DE L’HOTEL-DIEU PORRENTRUY
「LA COMMUNAUTÉ ISRAÉLITE DE PORRENTRUY AUX XIXe ET XXe SIECLES」
著者・Chantal Gerber Baumgartner
「Les réfugiés aux frontières jurassiennes (1940-1945)」
著者・Claude Hauser
End of insertionプロフィール:マルキ明子
大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。
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